利休焼き

胡麻をふんだんに使った料理

胡麻のおにぎり

胡麻料理のことを利休焼き・利休煮と呼ぶことがあります。 きっと千利休(せんのりきゅう)に関係のある逸話があるのだろうと思わせる呼び名なのですが、千利休と利休焼きの関係はどのようなものなのでしょうか。 パッと思いつくのは千利休がこういった胡麻料理を作った、産み出したからこそ、千利休の名前を取って利休焼きというのではないか、との考えでしょう。
ですが実際には利休が考え出したものではないようで、千利休の死後になんとなく後の人々が付けたようです。 胡麻をまぶして焼いたもの、胡麻を入れて煮つけたものなどがきっと利休好みだったのだろう、とかこれは利休ならきっと喜んだ、利休にふさわしいのではないか、と人々が考えて、千利休の死後にその名をつけただけのようです。
ちょっと拍子抜けするような話ですが、そこから胡麻を使った料理は利休の名が付けられるようになりました。 胡麻を使わないものにも利休の名が付く料理がありますが、それらも同じように利休が気に入りそうな一品だ、ということで付けられたもので直接千利休が関わったわけではないものがほとんどです。 「利休好み」「利休仕立て」もほぼ同義で、実際に利休が好んだかどうかではなく、きっと利休なら好んだだろうと思われるのならこの言葉が使われます。
まるで利休の作ったもの、利休お勧めの一品であるかのような言い方なのですが、利休はまったく関与していないのは少しいい加減な気もしますが、利休の名が持つ影響力は大きいのでそれにあやかろうとする動きがあるのもしょうがないことかもしれません。
ちなみに千利休(せんのりきゅう)とは安土桃山時代の高名な茶人で、1591年に豊臣秀吉の機嫌を損ねて切腹を命じられ70才で生涯を終えます。 茶人といえども大きな影響力を持っており、織田信長、豊臣秀吉という2人の天下人に仕えていました。
本名は田中与四郎といい大阪堺の魚問屋の生まれで、その頃の堺は貿易で栄えており江戸や京に匹敵する文化の街でした。 多くの商人は商いをするだけでなく優れた文化人でもあったのです。
戦国時代にも堺は大名に支配されることなく商人が自治を行なう独立国のようなもので、それが堺の文化を発展させることにも繋がったのでしょう。 戦とはあまり縁のない環境で各地と貿易を行い、多くを吸収してきたであろうことは容易に想像できます。 戦に明け暮れるような土地では戦いに関する武器や防具、刀や鎧が発達するかもしれませんが、お茶のような文化は育つ余裕がありません。
堺でも高名な商人であった利休の父は、店の跡取りとして利休に品位・教養を身につける為に16歳で茶の道に入らせます。 これが利休が茶道に進むきっかけとなり、18才で武野紹鴎(じょうおう)の弟子になると23歳で初めての茶会を開きます。
その後も精進した利休は茶道千家流の始祖となり、茶聖千利休と呼ばれるようになり、大衆にも人気の人物となります。 お茶に興味のない人でも名前を聞いたことはあるでしょうし、茶道を嗜む人であれば憧れの人に千利休の名を挙げることもあります。 それだけ偉大な人物であるがゆえに、今でもその名のつく料理があるのでしょう。
利休がきっと好んだだろう、ということでその料理に彼の名を付けるのは、それだけ多くの人々に親しまれてきたからなのかもしれません。